『インドネシアと武部洋子』後編:ロックとわたし

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

クリックorタップでインドネシア説明

 

ずぶっとハマってサクッと移住

前回は、数十年後の経済的発展を予知するというすばらしい能力を発揮し、天より高い意識と他の追随を許さないビジネスセンスで一路インドネシアを目指した私についてお話しましたね。や、ウソですけど。

『インドネシアと武部洋子』前編:ロックとわたし

どういう運命のいたずらか、あれよあれよという間にインドネシアに巻き込まれ。ロンドン行きの『深夜特急』に乗ったはずが、うっかりジャカルタ行きに乗ってしまって、大学を卒業する頃にはインドネシアへの移住を決めていた……というのが実際のところです。それもこれも、インドネシアがロックだったから、って一体なんの話だか。まさかインドネシア国籍まで取ってしまうことになるとは、移住当時にはさすがに考えもしていませんでしたが。

撮ったのは最近なのに、写ルンですによる色合いがレトロな外観とあいまって、移住当時90年代前半の雰囲気を醸し出すパダン(西スマトラ)料理店。

 

仲間と集ってえんえんぐだぐだ「ノンクロン」の世界

インドネシア語でノンクロン(nongkrong)とは、なにをするでもなくただ座っているという意味で、多くは、仲間とたむろしながらぐだぐだおしゃべりなどすることを指します。インドネシアに旅行をしたことがある方なら、あちこちでノンクロンをしている人たちを見かけたことと思います。その場所は、友人の家だったり、近所のコーヒー屋台だったり、道端だったり。

インドネシアの人たちには、誰でも行きつけのノンクロン場所があり、そこに行けば必ずメンバーの誰かしらに会える、みたいな特定のノンクロン仲間がいるものです。

ノンクロン文化について書いた『インドネシアすみずみ見聞録』(トラベルジャーナル)(1995)。この本には他にもジャカルタのカフェ、男のヘアスタイル、スラングなどについて寄稿しています。

最近のジャカルタなんかでは、渋滞やら仕事が忙しいやらで、ノンクロン場所もアプリ上のグループチャットなど、オンラインの場に移ってきているかもしれません。それでも、仲間同士で集い、あることないこと(?)情報交換をするノンクロンの精神は、インドネシアに生き続けていると私は思っています。私自身、このノンクロンを通してインドネシアの言葉、文化、生活についてたくさん学びました。

『写ルンです』インドネシア・ジャカルタを撮ってみたでもご紹介した、いまどきのノンクロン場所 Mondo By The Rooftopでのアートイベントの様子。

『写ルンです』でインドネシア・ジャカルタを撮ってみた

 

ストリートミュージシャンのたまり場

大学を卒業してすぐにジャカルタへ移住を決めたとき、私はまずインドネシアのポップカルチャーについて書くフリーライターになろうと思っていました。それで食おうなんて、今聞くと鼻からミーゴレン(インドネシアの焼きそば)が出そうなほどふざけた考えですが、1998年にアジアを襲った経済危機より前だったので、ぜいたくをしなければひとりで月1万円もあれば生活できた時代です。まあ、やっぱりミーゴレンは出ちゃうけど。

インスタントのミーゴレン。鼻から出さないでちゃんと食べてほしい。

大学の休みごとにインドネシアに通っていた「ヒッピー」期以来、私は、音楽をあさってはそのミュージシャンについて調べたり、会いに行ったりということを行っていました(会いに行けちゃうところがインドネシアのいいところ!)。余談ですが、「音楽をあさる」とはつまり、カセット屋さんに行くことを意味しています。CDはようやく出始めた頃で値段も高く、まだ高嶺の花。今やCDショップでさえもほとんど絶滅していますが、当時はジャカルタの街にいくつかあった行きつけのカセットショップ、その店頭に並ぶプレーヤーで売り物のカセットを好きに試聴できました。

東京であったインドネシア音楽を愛するひとびとの集いにて。Duta Suaraというのが品揃えの豊富なカセットショップの名前で、カセットをたくさん買うとこのボックスに入れてくれました(Special Thanks to オヤジレコード)。

最初に一番はまったアーティストが、やっぱり村井先生の授業で紹介されたイワン・ファルス(Iwan Fals)です。社会問題や愛について時に声高に、時にぼそぼそと歌うカリスマ的存在で、ノンクロンの場所では誰かしらが必ずギターを持っていて、みんなでイワンの歌を熱唱するのがお約束でした

イワンの歌は、実際に歌ってみるとインドネシア語の発音がとても気持ちいいんです。私は発音の特訓をさんざんこれでやりました。ただ、若干やりすぎたかRの巻き舌が強くなりすぎて、インドネシア語がべらんめえ調になってしまったのはご愛敬ってことで

そのイワンと懇意にして、コラボも行っているストリートミュージシャンのグループのたまり場が南ジャカルタのブロックM近くにあり、そこでは移住前から私もよくノンクロンしたものです。この写真はその頃のもので、真ん中にいるンバー・スリップ(Mbah Surip)はこの写真の10数年後に全国的に大ブレイクしたものの、そのあと間もない2009年に惜しくも急逝されています。

これがンバー・スリップの代表作。なぜブレイクしたのかは謎……。日本で言うと、牧伸二の曲が全国的に大当たりしたみたいな(違うしわかりづらい)。独特の高笑いがトレードマークで、一応ジャンルとしてはレゲエらしいです。

 

クリエイティブなノンクロン現場「ポトロット」の時代

1993年に移住してからはネタ探しのために街を歩いたり、雑誌や新聞を読んだり、ノンクロンしたりする日々でした。そんなある日、芸能情報誌に大きく取り上げられていたのがポトロット。

ポトロットとは、スランク(Slank)というバンドのメンバーが住む家がある通りの名前で、どうやらそこに才能あふれる音楽仲間が毎日ノンクロンしているという情報でした。そこに名を連ねるメンバーは、スランクをはじめとしたロック界のビッグネームたち。そこに私は「すいませーん」といきなり訪問して、仲間に入れてもらいました。

スランクは結成が1983年という大ベテランで、今も数あるロックバンドの中でもトップの座に君臨していますが、メンバーはだいぶ入れ替わっています。これは私が一番好きな時代の曲。

レゲエのイマネス(Imanez)は残念ながら2004年に若くして亡くなっていますが、私と誕生日が同じで、実は命日もちょうど誕生日と同じ日、しかもその6月22日はジャカルタの生誕記念日で、なにやら運命を感じます。この曲はいまでもビーチで歌い継がれている名曲です。タイトル『Anak Pantai』は直訳すると「ビーチの子」、これを無理に英訳して “son of a beach” と、遠まわしに英語の悪い言葉のダジャレだったりするとかしないとか……。

インドネシアに女性ヴォーカリストはたくさんいますが、プロデューサーのお人形ではない、自分らしい表現で創造する若手アーティストは90年代ではオッピー(Oppie Andaresta)が第一人者だったと思います。

少女への集団レイプ事件をきっかけに、性犯罪撲滅を訴えるための集会で一緒のオッピー(左)と私。「なにかしら音の出る物を持ってくること」という決まりだったので、私は素焼きの笛、オッピーはブルースハープを持参。

ポトロットは、こういったメンツが夜な夜な集まってはグダグダしたり、冗談を言い合ったり、悩みごとや未来を語りあったり、歌を歌ったり、曲を作ったり、絵を描いたり、文章を書いたり、写真を撮ったりしては創造性を爆発させる有機的な場でした(ってもちろんいいことばかりじゃないけど)。ポトロットの「卒業生」たちはミュージシャンばかりでなく、映像、芝居、絵画、ダンス、ビジネスと、今もいろんな方面で活躍しています。言ってみれば、私もここの卒業生みたいなものかも。

ちなみに私はここで出会った人と結婚し、めっちゃかわいい娘2人に恵まれたあと、すったもんだの末の離婚をしています。すったもんだの一環でレゲエバンドのマネージャーをやっていたことまで……。

実は、私がインドネシア国籍を取得したのは離婚とほぼ同じタイミングです。これから先もインドネシアで娘たちと生きていくつもりだったので、(企業なり配偶者なり)誰かしらに頼らないと得られない滞在・就労ビザを要することなく、しっかり根を下ろして暮らしたいと思ったのが帰化を決めた理由。今から6年ほど前のことです。

去年バリ島近くのレンボンガン島にて、次女と私(撮影:長女)。

 

ロードムービーは続く

こうして改めて振り返ってみると、若気の至りだけで突っ走り、「躊躇」だとか「熟考」という概念が怖いほどなかったこれまでの私。でも、それでこそ今の自分があると思うと、若気の至りもそう捨てたもんじゃないと思います。もはや「若気」の言い訳さえ効かない今になってもまだ爆走中。なりゆきで思いもしなかった方向にどんどん移動するロードムービーにすごく惹かれるのですが、人生もまるでロードムービー。脱線『深夜特急』ロック編、この先も行先がわからないから、とても楽しみです。

もちろん、こんな生き方ができるのもひとえに周囲のひとびとの信頼、理解とサポートのおかげ。特に、私のどんなアホな選択も、信頼して黙ってやらせてくれた日本の両親には感謝してもしきれません。だからこそ、自分の娘たちにも好きなように生きてほしいし、そうできる下地、環境はできる限り整えてあげたいと思っています。

ジャカルタの独立記念塔(モナス)にて。最近凝ってるランニングは、距離が伸びるごとに自由を獲得できる気がするから好き。

そうそう、フリーライターとしてインドネシアのポップカルチャーを書こうという鼻からミーゴレン案件ですが、こうして今も書いているように、一応ちょこちょこ実現はしています。特に『旅の指さし会話帳 インドネシア語』はおかげさまで昨年刊行20周年を迎え、みなさんにご愛用いただいておりますが、中には観光に使える言葉の他にもポップ&ロック系小ネタをしれっと盛り込んでますので、ぜひご覧になってみてください

 

おまけ

インドネシア音楽のSpotify プレイリストつけときますね。タイトルはそれぞれインドネシア語でAir(水)とApi(火)、比較的静かな曲を集めたAirと、激しめのApiとふたつ作ってみました。お好みの曲があったら、そこからどんどん深みにはまったりしてお楽しみください。タイトルのOkoyは、私の名前Yokoを反対から読んだもので、オッピーにつけてもらったあだ名です。

Air_Okoy

Api_Okoy

 

 

編集:ネルソン水嶋

  • ※当サイトのコンテンツ(テキスト、画像、その他のデータ)の無断転載・無断使用を固く禁じます。また、まとめサイトなどへの引用も厳禁です。
  • ※記事は現地事情に精通したライターが制作しておりますが、その国・地域の、すべての文化の紹介を保証するものではありません。

この記事を書いた人

武部 洋子

武部 洋子

東京生まれ、1994年からジャカルタ在住。現在はインドネシア国籍を有する。上智大学文学部新聞学科卒。『旅の指さし会話帳インドネシア語』(情報センター出版局)、『単語でカンタン!旅行インドネシア語』(Jリサーチ出版)など著作の他、『現代インドネシアを知るための60章』(明石出版)執筆、辰巳ヨシヒロ作『劇画漂流』インドネシア語訳など。インドネシアへの入り口がロックだったので、90年代インドネシアロックにはうるさい。Twitterはこちら

  • このエントリーをはてなブックマークに追加