大航海時代の国際カップルが生んだおやつ、マレーシアの伝統菓子”ニョニャ・クエ”
※本記事は特集『海外のおやつ』、マレーシアからお送りします。
お菓子は「クエ」! マレーシアのお菓子いろいろ
「飯はナシ、人はオラン、魚はイカン、死ぬのはマテ」。
第二次世界大戦前からマレー半島やインドネシアに来ていた日本の人たちは、こんな風に音の面白さで地元のことばを覚えたといいます。
マレー語(起源が同じインドネシア語とは共通する語彙が多い)で、お菓子は「クエ」。伝統菓子からスナック菓子までカバーする、範囲の広い単語です。
国内で136もの言語が話されているといわれるマレ―シアは多民族・多言語国家。大別してマレー系、華人(中国系)、インド系、そして移民が到来する前から住んでいる先住民族「オラン・アスリ」の4つのグループがあります。
食文化については地域差もありますが、それぞれの民族や宗教、先祖の出身地によって伝統行事なども異なるため、なかなか一括りにはできません。
お菓子も、熱帯の豊富な果物やココナッツ、自生のハーブ類を使ったものがいろいろあり、店の人に教えてもらいながら街角の露店で品定めするのも楽しいものです。
寒天を使ったゼリー菓子や、小麦粉などを使った焼菓子、揚げ菓子などいろいろありますが、日本人にとってなじみやすいのは、やはり中国系のお菓子。
豆やいもであんを作った饅頭、中秋節(日本のお月見に相当)には欠かせない月餅など節句菓子なども多く、時期になると地元の友達などにいただきものをすることもあります。
ひときわ目をひく、カラフルな「ニョニャのお菓子」
これは何だろう、と思わずショーケースをのぞき込んでしまうのは、「ニョニャ・クエ」(ニョニャのお菓子)。パステル・ピンクに鮮やかな山吹色、ミントグリーン、そして青(!)と実にカラフルです。形もさまざまで、見ていて飽きません。
中国系のルーツをもつプラナカン(後述します)の人びとのお菓子で、材料にはもち米や米粉を使ったものが多く、日本のもち菓子やお団子の親戚といった感じ。ココナッツミルクの独特な甘い香りがあるのが、南国風です。
ニョニャ菓子の定番「クエ・ラピス」
南国風ひしもち、とでもよびたくなるのは「クエ・ラピス」。
「ラピス」はマレー語で「層」という意味。パステル・ピンクやミント・グリーンに白といった組み合わせで、薄い層がいくつも重なっています。
タピオカ粉をまずは一段分だけ型に流し込み、固まるのを待って次の一段分を流し込む手順を繰り返して作るもので、正式なものは9層あるとか。
動画を見ると、作るのに手間と時間がかかる理由がよくわかります。
亀のかたちの縁起菓子「クエ・アンクー」
福建語で「アン」は「紅」、「クー」は「亀」を意味するそうで、長寿といわれる亀を模した、縁起もののお菓子です。
あっさりした緑豆のあんが入っていて、ほどよい甘さが好ましいという日本の人も多いようで、わたしもよく買うお菓子です。
翡翠色のココナッツ菓子「コチ・サンタン」
蒸したもち米にココナッツがたくさん入った「コチ・サンタン」。あんこでも入っていそうな雰囲気ですが、中はココナッツで、意外にもシャリシャリした食感です。
緑はパンダン(日本語で「ニオイタコノキ」)というハーブを煮出した色。「アジアのバニラ」ともいわれる、菖蒲のような形の植物で、長い葉を煮出すと香りのよい甘味が取れるので、マレーシアの料理やお菓子作りには特に欠かせない食材です。
「マカン・マカン、ニョニャ・クエ」(ニョニャ菓子を食べましょう)
ニョニャ菓子は、マレーシアの人に広く親しまれている伝統菓子。市場やスーパーマーケットなどでもよく見かけます。
プラナカン料理のレストランでも食べられるので、最初に料理を注文する際は、ぜひデザート分も空けておいてください。
というのは、意外と食べ応えがあるので、お料理で満腹になってしまうと、その後にもち米を使ったニョニャ・クエを食べるのは、少しつらいものがあるため。
伝統的なものだけに、やや古いイメージもあるお菓子でしたが、最近では軽食と楽しめるおしゃれなお店がショッピングモールなどにも出るようになり、若者にも見直されているようです。
国内に10店舗を展開する「Nyonya Colors」の支店がクアラルンプール国際空港にもあるので、旅行者には利用しやすいかもしれません。
「ニョニャ」とよばれたプラナカン女性たち
そんなニョニャ菓子をつくったのは、プラナカンの女性たち。
「プラナカン」とは、マレー語で「地元生まれ」ほどの意味。多くは大航海時代に、交易を目的にやってきた中国人男性と、地元のマレー系女性との間に生まれた子孫のことを指します。
プラナカンの男性には「ババ」、女性には「ニョニャ」という敬称をつけますが、台所を預かるのは女性だったので、プラナカン料理は「ニョニャ料理」、お菓子は「ニョニャ菓子」と呼ばれます。
15世紀末から始まる大航海時代、国際貿易港マラッカでは、中国やインドネシアなどの物産と、中東やインドからの交易品が取引されました。
当時の輸送手段は帆船で、どこへ行くにも風頼み。貿易商たちも、戻る方向の風が吹くまで、港に数ヶ月滞在するのが常でした。
危険な航海には女性を伴うことがなかったこともあり、港町に逗留するうちにそこで家庭をもつ商人たちもいて、プラナカンが誕生しました。いわばプラナカンは、「大航海時代の申し子」という存在です。
この記事では中国系のプラナカンを取り上げていますが、「プラナカン」はもともと外国人の子どもを指すことばだったため、マラッカにはインド系のチッティー・プラナカン、ポルトガル系のプラナカンなどのコミュニティもあります。
国境を超えたプラナカン・ネットワーク
プラナカンの人びとは、マレーシアのマラッカやペナン、やはり国際貿易港として発展したシンガポール、交易ルートのひとつだったインドネシア、中国系の移民が定着したタイにも暮らしています。
なかでも、英領マラヤとしてイギリス統治時代を過ごしたマレーシアとシンガポールに住むプラナカンたちは、東南アジアの基層文化に中国やヨーロッパの文物も取り入れた、独特な文化を築いてきました。
越境したミックスルーツの文化だけに、ニョニャ菓子の発祥や、正しいよび方など、マレーシアとシンガポール、インドネシアの間で議論になることも。
一方、プラナカン同士で国を超えた交流もあり、互いの生活文化や歴史を学ぶ機会を作り、次世代に伝統を手渡す場づくりをしています。
ニョニャ菓子も、プラナカンの食文化を伝える遺産のひとつ。似たようなお菓子はタイやインドネシアにもあるので、各地で少しずつ違う作り方を調べたり、どこに起源をもつのか考えたりするのもまた味わいがあります。
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編集:ネルソン水嶋
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この記事を書いた人
森 純
マレーシアを中心に東南アジアを回遊中。東南アジアにはまったのは、勤めていた出版社を辞めて一年を超える長旅に出たのがきっかけ。十年あまりの書籍・雑誌編集の仕事を経てマレーシアに拠点を移し、ぼちぼち寄稿を始めました。ひとの暮らしと文化に興味があり、旅先ですることは、観光名所訪問よりも、まずは市場とスーパーマーケットめぐり。街角でねこを見かけると、つい話しかけては地元の人に不思議がられています。