外国人は明治の頃から…新大久保はいかにして多文化タウンとなったのか

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コリアンタウンにとどまらない、多文化タウン

東京の副都心として高層ビルが立ち並び、日本屈指の大都市である新宿。世界各国から様々な人種が集まってきます。新宿区の外国人比率は12.48%(2019年5月1日現在)に達しており、大都市圏のなかでは最も高い割合です。

そのなかでも外国人が突出して多く暮らし、コリアンタウンとしてその名を広める新大久保という街。近年は日本の中高生や20代前半の女性に韓国カルチャーが人気を博し、チーズタッカルビなる料理が大ヒット。そんなこともあり2016年後半あたり、新大久保にはうら若き女性たちが押し寄せるようになり、2019年の今もその流れが続いています。

2016年12月頃の夕景。この頃から若い女性が増え、韓国コスメ店が目立っていた。

しかし新大久保は韓国だけの街かといえば、決してそうではありません。町を見渡せば、韓国料理店や韓流アイドルのグッズのお店はもちろんのこと、中国語で書かれた看板や、ベトナムやタイ料理のお店のほか、イスラム横丁などもあり、多種多様な人種が暮らす街だといえます

新大久保駅から望む街並み(2018年)

この記事では新大久保の街並みから歴史に触れつつ、現在に至るまでの様子をご紹介したいと思います。

 

「新大久保」という地名があるわけではない

この界隈は様々なメディアで「新大久保コリアンタウン」という名で取り上げられます。実際に韓国人が多く住む日本屈指のコリアンタウンです。

新大久保のメインストリート・大久保通り

JR大久保駅と新大久保駅を通るメインストリートとなる大久保通り、そして新宿職業安定所がある職安通りがメインとなり、西の小滝橋通り、東の明治通りに挟まれたエリアが中心となっています。この職安通りの南側は、日本を代表する歓楽街、新宿・歌舞伎町です。

上の地図で色がついている範囲が、ほぼコリアンタウンの範囲と重なるのですが、地図を見るとわかるように、ここには「新大久保」という地名はありません。これはJR山手線の駅名によるもの。本来の街の名前は新宿区の大久保と百人町です。

特に韓国人をはじめとして外国人が多く住み、繁華街としてにぎわっている場所は大久保1・2丁目と百人町1・2丁目にあたります。なかでも外国人の割合が高いのは大久保2丁目。その割合は38.7%(2015年、平成27年国勢調査による)にも達します。隣接する大久保1丁目、百人町1・2丁目も同様に30%を超える高い割合です(繁華街ではなく住居が主ですが、隣接する北新宿1・3・4丁目でも比率は14~20%に達します)。

 

韓国料理店などがひしめく路地は鉄砲隊の名残り

上の地図からもわかるように、コリアンタウンと呼ばれるエリア一帯は南北に並行して伸びる細い路地がいくつもあり、お店などが密集しています。この街を訪れると、どの路地に入ればよいのか迷ってしまうほど。東西を突っ切る道が少ないため、間違って入ると来た道を戻らなければならないことも。

なぜこのあたりが独特な細い路地になっているか、ということを紐解いてみると、江戸時代にまで遡ります。かつて徳川家康が江戸に入城して幕府を開く際に、防衛のためにこの町に配備されたのが「鉄砲組百人隊」。この町が「百人町」と呼ばれている所以です。

JR大久保駅前に描かれた鉄砲隊の絵

鉄砲隊は武士のなかでは最も身分が低い「足軽」にあたり、このような下級武士たちは城から離れたところで長屋に暮らすのが普通でした。そのため必然的にこのような区画になったといえます。

それが現在では、長屋があったその場所にはアパートのほか、雑居ビルなどに小さな店舗が入り込み、そこで飲食店やコスメ店、韓流グッズなどのお店が営まれているほか、最近では外国人観光客の増加によって、ゲストハウスも増えています。

 

明治大正期には文人たちが暮らす街。外国人は当時から

この大久保界隈には、明治大正期には著名な文人たちが暮らした街でもありました。詩人・小説家の島崎藤村の旧居跡(現・歌舞伎町2丁目)の石碑は東新宿の駅の近くにあるほか、大久保一丁目には、ギリシャ出身で来日後に帰化した小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)はこの地で生涯を終え、住宅街のなかに記念公園が作られています。

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の像

ほかにも思想家の幸徳秋水や、小説家の国木田独歩らもこの地で暮らしていました。小泉八雲以外の外国出身者では、孫文も日本に亡命した際に百人町の屋敷で暮らしており、他にも宣教師や外国人教師たちがからこの町に住んでいたといいます。

つまり新大久保周辺には明治・大正期にも外国人が暮らしていたということなのです。

 

戦後、新大久保に外国人が増えていったのはなぜ?

新大久保駅のそばでは戦後の1950年に、韓国人が創業したロッテの新宿工場が稼働を始めており、それが在日韓国人の増加にも影響したと考えられます。また隣の歌舞伎町では在日韓国人や台湾人などの「オールドタイマー」がビジネスを行っており、そうした人たちが住む場所でもあったようです。

その後1980年代後半になると留学生をはじめとする「ニューカマー」が増え、それに伴って日本語学校が増えるなど、多国籍化が進んでいきました。また、歌舞伎町で働く外国人たちに向けて食堂や美容室のほか、食材店なども営まれるようになります。今でも街を歩くと外国語だけの看板を見かけるのですが、そのような流れを受け継いでいるものだといえるでしょう。

工場や職安が近くにあったこともあり、ドヤ街が発達していたほか、長年営業する連れ込み旅館が今も残り、歌舞伎町の裏町という場所柄だけにラブホテル街があったりもします。

そして2003年の韓国ドラマブーム以降には、街とはもともと接点のなかった人たちも、「コリアンタウン」という新たな観光地としての新大久保にやってくるようになります。

職安通りの韓国式チキン店がにぎわう様子(2010年頃)

『オオクボ 都市の力 多文化空間のダイナミズム』(学芸出版社、2008年)の著者、稲葉佳子氏はこのような街の歴史や変化を受け、大久保という街は「「移民」によって形成された「新開地」「植民地」であり、戦後も一貫して新住民を受け入れてきた(p.166)」と述べ、さらに「このような歴史的風土を有する」と述べています。この本によれば、明治・大正期に外国人が移り住んできたことはもちろん、江戸時代の鉄砲隊も移住者だといいます。(※上述の新大久保の歴史は同書を参考にしました)

この本は2008年に出版されたものではありますが、その後の10年にも通ずるところがあります。2011年の東日本大震災後に韓国人や中国人留学生が減少した街には、ベトナム人をはじめ東南アジアからの留学生がやってくるようになり、今や「コリアンタウン」と一口には言い難いほど、様々な国籍の外国人がこの町に移り住んでいる状況です。こうしたことは今後の新大久保にも当てはまるのではないかと推測できます。

いずれは韓国カルチャーの人気が下火になれば街の様相が変わるでしょうし、また異なる形で新住民がやってきて、街の姿が変化していくのではないでしょうか。実際にこの町は日々変わり続けており、新しい店が出来ては立ち消え、といった状況です。

次に2019年現在のエスニックタウンとしての新大久保の町を写真とともに見ていくことにします。

 

2019年のエスニックタウンの現状

新大久保周辺は全体的に韓国の店が多いのですが、なかでも新大久保駅の東側は特に韓国のお店が多く、駅の西側の大久保駅にかけては韓国以外の店が数多く集まっている傾向にあります

エスニックタウンとしての新大久保のイメージ

イスラムのエリア

JR新大久保駅を出て向かい側の路地を入っていくと、「イスラム横丁」と呼ばれる通りがあります。もちろん日本やその他の国のお店もあるのですが、ここにはハラルショップ(イスラム教で禁忌でないものを扱う食材店)があるほか、トルコ料理であるケバブのお店や、ネパール料理の店なども見られます。

ここにやってくると、南アジア系の人たちの姿を目にし、ヒジャーブ(スカーフ)を被った女性が青果店で買い物をしていたりもします。

雑居ビルのなかには小さなモスク(正確には部屋の場合は「ムサッラー」)が設けられており、礼拝の時間になると従業員たちはシャッターを閉め、仕事を抜けて向かいます。

ベトナム・タイのエリア

新大久保駅を出て、西側の線路沿いの道には様々なビルが集まっており、ここは「一番街」と呼ばれている通り。タイやベトナム料理店がいくつかあるほか、楽器店がこの通りに集中しています。

特にベトナム料理店は近年留学生が増加していることから、この通り以外にも点在しており、街を歩いていても国旗を掲げた店をちらほらと目にします。このような店ではフォーやバインミーなどの本場の料理が味わえます。

中華系のエリア

JR大久保駅からJR新大久保駅にかけては、コリアンタウンというよりもここ最近はチャイナタウン化している傾向があります。80年代後半以降から中国人留学生が増えはじめ、韓国人ほどではないものの、緩やかに増えていったようです。

中国本土はもちろん台湾、華僑のお店が集まっており、中華料理店のほか、中国語の看板のインターネットカフェやなどを目にします。

また、JR大久保駅南口にある立ち飲み居酒屋街には、台湾の人によって建てられた道教廟で、海洋を守る女神が祀られている「東京媽祖廟」という豪華絢爛な宗教施設が目にとまります。

 

コリアンタウンだけではない新大久保

このように現在は、単純に「コリアンタウン」と一言では表せないほど、様々な国の人々が集まって暮らし、それぞれの商いが行われている場所だと言うことができますし、近年その傾向が顕著です。

新大久保という町には、江戸時代という昔から様々な人たちが移住してきて定着する人もいる一方、グローバル化した現代では絶えまなく新しい要素が入り込み、日々変化している街だといえます。移民が増加しつつある日本の未来を占う上でも、今後もこの町の動向には目が離せません。

 

 

編集:ネルソン水嶋

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この記事を書いた人

吉村 剛史

吉村 剛史

東方神起やJYJと同年代の1986年生まれ。「韓国を知りたい」という思いを日々のエネルギー源とするも、韓国のオシャレなカフェには似合わず日々苦悩。ソウルや釜山も好きだが、地方巡りをライフワークとし、20代のうちに約100市郡を踏破。SNSでは「トム・ハングル」の名で旅の情報を発信。Profile / Twitter / Facebook / Instagram / 韓旅専科

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