『チアリーディングと笠原園花』後編:私はだれよりも飛べる人になる

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チアリーディング選手兼コーチの笠原園花です

みなさん、こんにちは。コーヒーの街として知られるお洒落タウン、オーストラリア・メルボルンで競技チアリーディングの選手として活動中の笠原園花(かさはらそのか)です。

チアリーディングといえば本場はアメリカですが、私はオーストラリアの強豪クラブ「サザンクロスチアリーディング」に所属しています。最高峰である世界大会「チア・ワールド」では2016年に準優勝、2017年に世界3位になった実力を持つクラブです。

2019年シーズンの地区大会の様子、左のタワーの一番上にいるのが私。

選手としての活動については前編でもお伝えしましたが、2019年以降はコーチとしても活動しています。所属クラブ内でのコーチをはじめ、地元大学のチアリーディング部、日系幼稚園での体操クラスを担当。そして「日本語で教えるチア・体操教室」を立ち上げ運営しており、こちらは7ヶ月がたった今では総勢50名の生徒を抱えるまでになりました。

大会本番前のリハーサルで大学チームをまとめているコーチとしての私

週3回のチーム練習に週5回のコーチと、大好きなチアリーディングにどっぷり浸かり「ワクワクした生活」を送っている私ですが、この生活を手に入れるまで紆余曲折。チアから遠ざかった生活に、毎日泣いていた時期もありました。

『チアリーディングと笠原園花』前編:私より飛べる人に会いに行く

さて、前編では、日本代表として出場したフロリダでの世界大会を終え、叶えたかったもう一つの夢「ドバイで働く」を無事に叶えたにもかかわらず、赴任後は毎朝涙を流していたことをお伝えしました。これからは、その後のお話です。

 

「世界大会を終えたら引退」を約束にドバイ駐在

ドバイの職場では、中東市場に日本の製品輸出のための新規ネットワークを作る営業を担当。主に食品と太陽光発電関連の分野を担当。世界一高いタワー「ブージュ・アル・アラブ」を眺めながらの高級レストランでの商談もあれば、砂漠近くのうっすら砂の積もったオフィスでの商談も。取引先はアラブ、アジア、ヨーロッパ系まで多岐にわたり、日本では経験できないような、まさに非日常の毎日にワクワクが止まりませんでした。

展示会で民族衣装ガンドゥーラをきたアラブ人相手に商談する様子

その一方でやはり、「チアリーディングで上を目指したい」という気持ちが消えることはなく……。「社会人経験の少ない若造が海外に駐在できる貴重な機会を逃すまい」という気持ちとぶつかり合い、どうしたらいいか分からずただホロホロと涙が流れてくる毎日。

週末だけ日本に帰ってチアの練習をして、平日はドバイで仕事ができればどちらの夢も叶えられる。「どこでもドアがあればいいのに!」と何回思ったことでしょう。「アラブのお金持ちの彼氏と付き合って、毎週飛行機代を出してもらえたら!」なんて思ったことも。しかし、現実は甘くありません。

ドバイで仕事はしたい。でも、チアもやりたい。そこで至った結論が。

「そうだ! ドバイでチアしよう」

でした。

 

ドバイならではな多国籍なチアリーディングチーム

そうして私は、駐在員として勤務しながら、チアの練習も続けることになりました。

この話をすると、「ドバイでチア(チーム)があるの!?」とよく言われます。それが、あるんです。なぜならドバイは人口の約85%が外国人で構成される多国籍都市。インドやパキスタン、フィリピンをはじめとするアジア人が約50%を占め、イギリスなどのヨーロッパの国々からも多くのビジネスマンが駐在しています。中でも、フィリピンとイギリスはチア大国。「学生時代に母国でチアをやっていた!」という人が多くいました。

そこですでに存在していた「チアドバイ」という小さなサークルに入ったものの、人数不足が原因ですぐに閉鎖。であれば「自分でいちからチームを作り直そう。」と決意。が、言うまでもなく、それは想像を絶する大変さでした。何もないところからのチーム作り、それも会社員として働きながら……。メンバー集め、場所探し、練習運営、目標設定までその全てを自ら行いました。

チアサークル「チアドバイ」左で踊るのが私

「ドバイを生活拠点とするエミレーツ航空のキャビンアテンダントに元チアリーダーは多いはず!」と狙いを定め、社員専用のFacebookページにメンバー募集の案内を投稿してもらうよう依頼したり、ドバイ中のトレーニングジムに訪問し場所代の価格交渉をしたり、InstagramやFacebookの管理も一人で行ったり、自腹を切って広告を打ってみたり、大手イベント会社の社長に「有名歌手のコンサートで演技させてほしい」と直談判しに行ったり。

地道な作業に、「なんでこんなことやっているんだろう」とふと振り返ってしまうこともありましたが、徐々にメンバーが集まっていき、フィリピン、イギリス、フランス、アイルランド、スコットランド、デンマーク、インド、オーストラリア、南アフリカ……と、世界最大規模ともいえる多国籍チアチーム「UAE ALLSTARS」が出来上がりました。

UAE ALLSTARSのメンバー達。イベント演技前の集合写真。

そうして気づけば、イベント会社の方から演技依頼をされたり、小学校でチアクラブを創設してほしいとお願いされたり……現在でも、チームを通して繋がったメンバーがお互いの結婚式に参列していたりするのをSNSを通して見ると、心が救われます。

依頼されて創設したインターナショナルスクールGEMSでのチアチーム

このように順調にチームは育っていきましたが、選手として、というよりチーム運営者として動く時間が増えるばかり。チアがしたいと思ってはじめたのだから、当然、「私だってまだまだ選手として世界レベルで活躍したい」という思いはますます強くなっていきました。

そこで運営と並行しながら、女子部門で世界2位のフィンランドの最高峰チームや、ノルウェーの代表選手に会いに行くという、「北欧チア一人旅」を実行。もちろん、日本への一時帰国中だって練習は忘れません。そうしてドバイとチアを両立した生活を送りました。

フィンランド強豪チーム「FUNKY GORILLAS」の練習に参加した時の写真

 

オーストラリアでのチア修業と自信喪失

駐在開始から1年が経った頃、オーストラリアの強豪チアリーディングクラブでの修業を決意。やはりチアへの情熱があったからですが、最後の最後に私の背中を押してくれた直接的なきっかけは、ドバイで仲がよかった友人から言われた言葉です。

「多くの人が人生で何をしたいのか、何に情熱があるのか、夢があったとしてもどうやって叶えればいいかわからない。でもあなたには大きな夢がある。その夢に向かって正しい方向に進んでいるかもう一回自分自身に聞いてみて。ソーラーパネルを売るのはあなたがやることではない。空高く飛ぶことこそ、あなたがやるべきこと。3ヶ月オーストラリアで頑張って、あなたの新しい人生をスタートさせて。」

そして、ヘッドコーチにメールで直談判。

「チームに入れるレベルならいいよ。技術を見たいから、いったんメルボルンにきて!

結果次第ではドバイにとんぼ返りになってしまう、それでも「世界レベル」への憧れは強かったのでしょう。「チアのためなら今の仕事を辞めてもいい!」と思い、上司に辞職を願い出ましたが、「3か月の休職」という形で落ち着きました。

振り返ってみれば、「コーチに連絡を取る前からオーストラリア行きを悩んでいた」ということになりますが、私は昔からダメだったときのことを考えない性格で、ましてや「海外でチアがしたい」ということに関してはすべてがうまくいく前提で考えていたとも言えます。だからこそ、その後の展開は私にとって想定外のものでした

そして、万全を期して臨んだオーストラリアチア修行。渡航したその日のうちに練習が始まったものの、目にしたものは高い高い壁。自分が得意だと自負していた技すらも、全員ができて当たり前のレベル。そもそも「技ができる」ことではなく、「いかに美しく技を魅せられるか」に焦点を当てて練習していることに、ショックを受けました。

「今まで私は何をやってきたんだろう」

日本やドバイで培ってきた自信が一気に崩れ落ちた瞬間でした。

3カ月練習したオーストラリア強豪チーム(現所属クラブ)の練習場

こうして、悶々とした3か月間があっという間に終了。

もしこの時、周りからちやほやされるほどのレベルであれば、休職から退職し”メルボルンに残る”という選択をしていたかもしれません。今思えばあのとき、「本当にお前はチアで生きていく決意ができているのか?」と神様が私を試していたのではないかと思うのです。

結局、「チアも仕事も中途半端ではこの先の人生なにをやっても成功しない」と腹をくくり、ドバイに戻り復職。しかし、本当に、人生とはどこでなにが起こるか分かったものではありません。事態は急転。

 

世界大会へのチケットと母の言葉

ドバイに戻ったあとは、仕事後や週末はチアの練習に、週1で小学校でのチアクラブのコーチと、相変わらずチアの毎日。中途半端ではいけないと思いドバイへ戻ったのにこれもどうなのかと思い、今は仕事で成果を出すことに集中しよう。そう思った矢先のことでした。

年末年始に母と出かけた(現地合流現地解散)バリ旅行。旅先からドバイに戻り、その4日後、私の元に一通のメールが届いていました。送り主はあの、力不足を痛感したオーストラリアの強豪チーム、そのコーチからの「世界大会出場へのオファー」でした。

バリでは母は観光、私はやはりチア関係(島唯一のチアチームでコーチ)

コーチ「29日までにメルボルンに来られない? 世界大会に出られる選手が急遽1人必要なんだ。

私「世界大会に出られる? もちろんでたい! ん? 29日までに? あと3週間しかない? 仕事はどうする!?

予期せぬ状況に脳内は爆発寸前。仕事とチアを天秤にかけた時に、自分の中ではチアが圧倒的に重いのに、休職期間ももらっていたという立場もあり、今会社を辞めたら多大すぎる迷惑がかかるという思い。しかし、時間は無常にも迫っている。早く返事をしなければー。

そこで上司に相談すると、「今年絶対に世界大会に出なければいけない理由はないよね?」と。一方、日本の親友に相談すると、「こんな機会二度とない! 頑張ってこいよ!」と。社会人としての務めとチアへの思いの間で揺れる自分。そこで決め手になったのは、母からの言葉でした。

上司はあなたの人生の責任は取らないよ、自分の軸で決断しなさい

これが私を吹っ切れさせました。最後の最後に思いを固めた上で、日本本社の部長に退職の意志を連絡。事情を話した後、ため息とともに「笠原さんには失望しました」と一言。そして、1月10日15時50分 、「メルボルン行きます」とチームに連絡。打診から回答までにほぼ二日間、これまでの人生においてこれほどに頭を使った時間はありません。

チアで生きていくという決断をした以上、後戻りはできないという不安が大きかったのは確かです。しかしそれ以上に、大好きなチア、それも世界レベルに触れられるワクワク感が込み上げました。この時の私の決断に、拍手を送りたいです。25歳の私、よくやった!

 

私はだれよりも飛べる人になる

こんな紆余曲折がありながらも、強豪チームの一員として念願の世界大会出場。世界6位という成績を残しましたが、「チームの中心となってもっと活躍できる選手になりたい」と思い、ビザをとってメルボルンへの本格的な移住を決意。

2018年世界大会終了後。悔しさが残る世界6位。

移住後は半年間ほど商社に勤めましたが、週5勤務に週5チアと心身とも疲労してこれでは本末転倒と退職。そのあとは、冒頭でも触れた「日本語で教えるチアリーディング・体操教室」を立ち上げ。メルボルンには駐在員の子供や日豪ハーフの子供が多く在住しており、「日本語で」習い事をさせたいという声が多かったのです。

振り返ってみると、大学時代からキッズチームのコーチを始め、ドバイ、バリ……そしてメルボルンでも。「好きなことを仕事に」というフレーズが日本で流行った時期がありましたが、まさにこの言葉通りの生活をしています。

立ち上げ運営している日系キッズチームのメンバー達と大会初出場後の写真

私の生活はチア一色に染まり、思う存分練習できる環境も整いました。現在は2020年4月に開催される世界大会に向け、2018年の屈辱を果たすべく日々チーム一丸となって練習しています。ヘッドコーチが「今のチーム状態は過去最高、周りからの評価も高い」というほど。選手全員がそれを肌で感じています。このチームで強豪アメリカを抜き「世界一」に輝きたいー。この夢を実現させるため、あと6ヶ月走り抜きます。

 

 

編集:ネルソン水嶋

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この記事を書いた人

笠原 園花

笠原 園花

1992年神奈川県生まれ。芸術の街オーストラリア・メルボルン在住のアスリート。競技チアリーディングのオーストラリア代表チーム所属。韓国1年、UAE2年の在住、3年間の会社員生活を経て現在は「ワクワクすること」に絞った生活を送っている。
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