2018.10.18

破壊か再生か、今見直される韓国の戦前日本建築群。

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世界各地に存在する日本人街。実際のところ、どんな様子なのか? 現地からレポートしてもらうと、驚きの実態や歴史が分かってきました! 隣国・韓国にもある日本人街。日本人も多く住む、日本食店も多い、しかしながらそれ以上にインパクトの強い場所があります。それは仁川。なぜかというと、戦前の頃、ここを中心に日本人街が築かれていたためです。それ以外にも韓国全土に残る日本人の足跡、我々の知らない歴史がそこにはあります。

 

ソウルの現役日本人街は「二村」だがインパクト薄め

ソウルには数多くの駐在員らが暮らす二村(イチョン、이촌)という街があります。このあたりには日本風の居酒屋や飲食店がちらほらあったりします。現在の「日本人街」というテーマであれば、本来はこちらを紹介すべきでしょう。

二村の路地。日本料理店が増えた昨今、ほかの地域と大差はない

しかし韓国では、日本式の居酒屋が増え、日系チェーン店も続々と進出している昨今、「日本人街」が特別な存在とは思えません。さらに日本統治時代(1910~1945年)を経ているため、その当時、またはそれ以前に建てられた近代建築や、日本家屋のインパクトが圧倒的に強いのです。

ソウル・二村のアパート群。

 

朝鮮の開港と仁川に築かれた日本街

日本と朝鮮の歴史が大きく動いたのは1875年のこと。西欧列強が勢力を強めていたころ、それを打ち払おうと攘夷政策を行っていた朝鮮(1392~1910)でしたが、日本は黄海に軍艦を送りこみ、江華島に近づきます。朝鮮側は日本と知らずに砲撃したとし、軍事衝突が起きます(日本の挑発があったとの説も)。その件で朝鮮側に謝罪を求めるとともに、翌1876年、日本に有利な日朝修好条規を結ばせます。

この条約により、すでに日本公館があった釜山のほか、1880年代には仁川(インチョン、인천)と元・北朝鮮の元山(ウォンサン、원산)の2港を開港させたことをきっかけに、日本人はもちろんのこと、中国人、そのほかの外国人も朝鮮に住むようになりました。

仁川駅を訪れると、駅の目の前には「中華街」の門がそびえ、その先にはチャイナタウンが広がっています。ここは開港当時、「租界」という治外法権の外国人居留地でした。実際に行ってみると現在はチャイナタウンの絢爛さが際立ちますが、実はここにはかつて日本租界もあったのです。

石段の上に立つのは孔子の像。左側には清(中国式)の灯篭、右側には日本の灯篭が並び、これが清と日本の租界の境界を示しています。

第一銀行(現・みずほ銀行)仁川支店、のちに朝鮮銀行

そこに今もなお残るのは、当時の銀行や企業、倉庫など、明治・大正期に建てられた西洋風の日本近代建築。時代を感じさせる重厚な石造りの建物が堂々とあり、そのまま保存されています。

こうした大きな建築物のみならず、もともと日本の長屋が多かったことから当時の民家も再現されているのですが、実際はかなりアレンジされてしまったようです。それでも「日本風の建物」とのこと。

このように仁川は釜山とともに、港町だからこそ、海の向こうから様々な文化が当時の朝鮮へと入ってきたのです。

 

旧ソウル駅は東京駅そっくり?

近代化を進めた明治政府は、1894年には日清戦争、1904年には日露戦争で勝利を収めると、朝鮮での勢力を強めていきます(朝鮮は1897年に大韓帝国と国号を改めます。以下韓国)。その後、1904年からの3次にわたる日韓協約で外交、内政を日本の管理下に置き、1910年の日韓併合条約により韓国はとうとう日本の一部となったのです。

韓国では日本統治時代(1910~1945)のことを「日帝時代(일제시대、イルチェシデ)」、または「日帝強占期(일제강점기、イルチェカムジョンギ)」と呼んでいます。実質的には植民地だったわけですが、日本に支配されたという悔しい気持ちが根強いようで、「植民地時代」などと呼ばれることを嫌う人も多いのです

当時、首都ソウルは「京城(けいじょう)」と呼ばれていましたが、それらの建物が今も数多く残っており、現在でも使われている建物さえあります。

どこかで見覚えありませんか? この建物。

こちらは旧ソウル駅舎なのですが、東京駅に非常によく似ています。1925年に東京帝国大学教授の塚本靖による設計で建てられた駅舎で、2003年までソウルの玄関口として使われ、現在は隣に新駅舎を建て、旧駅舎は改装を経て、「文化駅ソウル284」という名称で展示や各種イベントが行われています。

ちなみに日本統治時代の名残は、韓国では「日帝残滓(일제잔재、イルチェジャンジェ)」と呼ばれます。「残滓」は残りかすという意味。建物に限らず、言葉や文化も同様です。それらを排除しようとする動きは今でもありますが、当時敷設された鉄道などのインフラをもとに発展した事実もあるため、すべてを取り除くことはできません。

なかでも日本の支配を象徴する建物といえば、朝鮮総督府庁舎でした。風水地理学的に最もふさわしい場所にあった朝鮮の正宮「景福宮」の目の前に、風水の気脈を断つように建てられましたが、国立中央博物館として使用されたのち、場所が場所だけに1995年に取り壊されています。

景福宮の内側から見た旧朝鮮総督府庁舎(1995年)/🄫Canadiana

一方、京城府庁舎として使われていた建物は、2012年までソウル市庁舎として使われていました。老朽化もあり、その後ろに建てられた新庁舎に機能が移りましたが、文化財に指定されるとともに今は図書館としてリニューアルを遂げ、新たな形で活用されています。

図書館となった旧ソウル市庁舎(前)と、青いガラスの新庁舎(後)

なお、ソウル市庁舎のすぐ近くには韓国屈指の繁華街、明洞(ミョンドン、명동)があり、当時は「明治町」と呼ばれ日本人が多く住んでいました。そのため近代建築が残っており、朝鮮銀行本店、三越百貨店京城支店、明洞芸術劇場の建物は今でも使われています

『写ルンです』で韓国・ソウルと釜山を撮ってみた

写ルンですで撮ると、当時の景色をより思い浮かべることができます。

 

韓国の全国各地にも残る日本家屋

このように仁川とソウルには多くの日本家屋や近代建築物が残っていますが、韓国の各地方にも同じような景色が見られます

日本人による米の収奪と伝えられる群山日本家屋街

韓国の西海岸に位置する港町、群山(군산、クンサン)は仁川から十数年あまり経った1899年に開港しました。群山周辺は平野が広がる肥沃な地域で米の生産が盛んだったのですが、開港後に移り住んできた日本人の事業家たちが農地を買い占め、日本本土へ輸出。その際、地元住民たちの多くが小作農に転落してしまったといわれています。

韓国側からみると、これは日本人による「米の収奪」であり、文化財の説明書きはそのような論調で記されています。韓国各地の博物館や、文化財にある日本語の説明は、日本人にはグサリと胸に突き刺さるような説明が多いこともまた事実です。

とくに群山港の目前は干満の差が激しく、干潮時には干潟が広がります。港には上の写真のような浮桟橋が4つ作られましたが、うち3つの桟橋は現在も残り、実際に使われています。

1909年に建設された群山税関。旧ソウル駅舎や旧韓国銀行本店(明洞にあり現在は貨幣博物館)とともに、近代に建てられた西洋古典主義の三大建築物のひとつとして保存され、内部では当時の税関の様子が再現されています。韓国では「日帝のコメの収奪を見守ってきた税関」として伝えられています。

この群山には多くの日本人が住んでいたことから、街には日本家屋が数多く残ります。韓国の伝統家屋(韓屋)は平屋が多いのですが、日本家屋は木造の瓦屋根の二階建てが大きな特徴です。またオンドル(伝統的な床暖房システム)のある韓屋とは異なり、もともと夏に過ごしやすいような造りになっているのだといいます。

韓国の家には古今に渡り床暖房、「オンドル」がつなぐ変わらぬ温もり

オンドルについて詳しくはこちらをどうぞ。

このような日本家屋は「敵産家屋(적산가옥、チョクサンガオッ)」と呼ばれています。そのため、解放後(日本の敗戦に伴う撤退後)に取り壊された日本家屋は数多かったのですが、このように残ったのは、主に低所得者層が住むようになったから、とのこと。今でも取り壊しを求める声もあるようですが、現代まで残った日本家屋のなかでも文化・歴史的価値が高いものは改修され、保存される流れにあります。

昭和初期の街並みがそのまま残る九龍浦旧日本人家屋街

韓国東海岸の浦項(포항、ポハン)という都市にある、九龍浦(구룡포、クリョンポ)という小さな港町では、日本家屋街が大幅に改修され、観光名所として注目されるようになりました

上の写真は改修される前の2011年に撮影したものですが、これらはかつて日本人が住んでいた日本家屋です。韓国人が住むようになって鮮やかな色に塗り替えられていますが、それを除けば、大正・昭和の日本の住宅街がそのまま残されたようです。

2011年当時にも日本家屋を改造した喫茶店があり、お店の前にはカタカナで「コーヒー」「カレーライス」というのぼり旗がおかれていました。

現在はこの通りのお店で浴衣をレンタルすることができ、街を歩きながら写真撮影を楽しむこともできるなど、韓国人の国内旅行客にも人気のスポットになっています。

 

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実際に住居として使われ続け、老朽化してもなお現代にまで残った日本家屋ですが、ついに改修されて保存されるという流れになったのは何よりも、韓国が経済発展を遂げ、文化財の保存にも予算が回るようになった、ということが大きいのではないでしょうか。そしてまた、人々の心にも余裕が出てきたのだと思います

韓屋と日本家屋が融合した宝城旅館

南海岸の宝城郡にある伐橋(벌교、ポルギョ)という町。私は日本家屋があるとは知らずにこの街を訪れたのですが、まるで日本のひなびた温泉街を歩いているかのような印象を覚えました。

伐橋の街並み

そこで目に留まった日本式の建物が、宝城旅館。この建物は1935年に建てられた旅館で、韓屋と日本家屋が融合した建築です。

宝城旅館

宝城旅館は2004年に登録文化財(主に近代の文化財を登録する制度)に指定されたあと、2011年に復元工事が完了。現在は宿泊施設兼カフェになっています。木造の趣き深い建物のなかで韓国の伝統茶を飲んだり、実際に旅館として宿泊することも可能です。

私が建物を眺めていたとき、その隣で説明書きを読んでいた若い男女は、「日本の建物なのに、韓国の文化財なの?」と納得いかない様子で話していました

韓国にとって日本による支配は恥ずべき歴史であり、日本の近代建築や敵産家屋は「負の遺産」という認識があるため、破壊すべき、との声もあります。しかし一方で、「過去を忘れてはならない」という意味が含まれていることはもちろんですが、これも韓国のひとつの時代であり、地域の歴史や文化を知られる貴重な資料として保存しよう、という声もあります。

 

韓国に残る日本建築を探しに

このように韓国各地を巡っていると、都市や港町を中心に大正・昭和初期の日本の建物によく出くわします。今回出てきた以外にも江景、金堤、木浦という地域にも日本家屋、近代建築街があります。今、これらの建物は修復や再整備がすすめられており、観光資源として位置付けられるようになっています。それはまた日本人観光客の誘致に活かされ、積極的にPRしている自治体もあるのです。

このような建物にまつわる歴史を、韓国ではどのように伝えられているかを私達が知っておくことは重要です。しかし解放後70年を過ぎた今、よりカジュアルに日本家屋を眺めにいってもよいのではないでしょうか。日本家屋が懐かしく思える方ならば、その雰囲気を楽しめるに違いありません。韓国に残る日本を探しに、韓国の地方を旅してみませんか。

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この記事を書いた人

吉村 剛史

吉村 剛史

1986年生まれ。ライター。「韓国を知りたい」という思いが日々のエネルギー源。誰も訪れない地方都市巡りをライフワークとし、20代のうちに約100市郡を踏破。国内では2月号『散歩の達人』コリアンタウン特集執筆ほか。SNSでは「トム・ハングル」の名で韓国の小ネタを日々発信中。HP / Twitter

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