2018.10.22

消えゆくブラジルの日本人街・リベルダージ、移民110年の足跡

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世界各地に存在する日本人街。実際のところ、どんな様子なのか? 現地からレポートしてもらうと、驚きの実態や歴史が分かってきました! ブラジルは世界最大の日系社会、一世紀以上前から日本より移民が渡り、過酷な暮らしを経て現在の日系人の地位を獲得しました。そのはじまりの街が、リベルダージ。今は駅名にもジャポンと名が付いていますが、近年は中国人などのほかのアジア人が増え、またアフリカ諸国からの移民も増えているとのこと。

 

世界最大の日系社会を有する国・ブラジル

一世紀以上の日本移民の歴史を刻む日本人街・リベルダーデ

日本から地理的に最も離れていながら、世界最大の日系社会を有するブラジル。

1908年から戦前に約15万人、戦後に約5万人が移民し、現在、ブラジルの日系人人口はちょうど国全体の1%にあたる約200万人ともいわれる。過去20~30年の間には、仕事で日本に渡り定住する日系、非日系ブラジル人も増えているのは日本でも周知の通りである。

日系人が最も集中するのがサンパウロ州であり、州都・サンパウロ市。とりわけ、現在は中国人も増加して東洋人街とは言われるものの、20年以上前まではれっきとした日本人街と認知され、今なおブラジル人からその印象が刻印されているのが、リベルダーデ地区だ。

リベルダーデ地区の様子、週末は特に多くの人で賑わう。

日本をイメージした建造物も見られるリベルダーデ地区

日本から遠くても日本食に困らない街

このリベルダーデがなぜ「日本人街」といわれてきたかについては、スーパーなどの商品棚を見れば一目瞭然。

スーパーには日本の食材がずらり

しょう油やお味噌、豆腐に納豆、日本酒から生鮮食品まで……。ブラジル産、輸入品を問わず、リベルダーデ地区は日本から遠く離れていても、贅沢をいわなければ世界トップクラスの「日本食に飢えない街」である。ブラジル全土から日本食品を買いに来る人や、全国からの注文を受けて空輸で販売している商店も。ひとえに110年前からブラジルに根を下ろして来た、先の日本人移民の遺産だ。

納豆も、日本から輸入されて売られている。

かつて、リベルダーデが一様に日本人街と呼ばれていた頃は、昔ながらの昭和中期といった雰囲気の商店に日本人客が出入りし、文字通りブラジルの日本人街を形成していた。そこで暮らす分には、日本語しか話せなくてもそれほど不便もなかった。

しかし現在は、中国人が増加したことや、また、日系人の暮らす地域には中小規模の日本食材店がブラジル各所で営業していることからそれほどリベルダーデに行く必要もない時代になったこともあって、かつての日本人街は東洋人街に様変わりしたといえるだろう。

リベルダーデ以外でも見られる日本食品店の一つ

リベルダーデ以外の日系人の多い地域で営業している、日系人の眼鏡店。

中国人の増加と時を同じくして、リベルダーデの商店は近年、より明るくモダンにリフォームされ、その客層も東洋人だけでなくブラジル人も多くなった。

店の雰囲気がきれいで明るいというのはブラジル人客を引き付けるためには必須条件で、飲食店に関していえば、ブラジル人は味がよければ店舗が少々貧相な雰囲気でもOKという事がなく、肝心の食事の中身よりもまずは外観のきれいさや豪華さで店に入るかを判断する人が多い。その辺り、近頃のリベルダーデ地区の食料品店やレストランは、ブラジル人マーケットで成長するために余念がない。

明るい店内で買い物に励むブラジル人

リベルダーデの食料品店の店内や店の前でくつろぐお客さん

2018年、「リベルダーデ・ジャポン」論争勃発。

そのリベルダーデで2018年7月、ひとつのプチ論争が発生。その年はブラジルに公式の日本人移民が到着してから110周年を迎え、日本から眞子内親王殿下をお迎えして例年よりも華々しく記念事業が行われる計画があった。

そこで、それまでリベルダーデ広場と呼ばれてきた場所が「リベルダーデ・ジャポン広場」に、地下鉄の駅名もリベルダーデ駅から「ジャポン-リベルダーデ駅」と改名。このことが、現地の日系メディアやSNSなどでもちょっとした賛否両論を引き起こす事態になったのだ。

「ジャポン-リベルダーデ駅」と改名されたメトロの駅

その理由は、特にこの10年くらいの間にリベルダーデ地区で存在感を増したのは中国人であるように、日本人だけでなく、「他のアジア人も出入りするにも関わらず「ジャポン(日本)」を強調した地名に変化するのはいかがなものかと」という意見。

さらに深い部分では、そもそもリベルダーデ広場は日本人が集まるはるか以前の植民地時代には、逃亡奴隷や犯罪者の処刑場だったため、日系移民史よりもはるかに大きなブラジル史の出来事に由来する。「そこに日本がつけ入る隙はないのでは」という意見。

19世紀末には奴隷制も廃止され、処刑場だった場所はリベルダーデ(=解放の意)と呼ばれ続け、今も広場に隣接する教会では不遇の死を遂げた人々を鎮魂するろうそくが黙々と常時灯されている。週末ともなれば観光客や買い物客でごった返すダウンタウンの中心で、人間の喜びと悲しみが隣り合わせに息づいているのが今のリベルダーデ・ジャポン広場だ

処刑された人々を鎮魂する教会

韓国人の存在感も感じさせるお店もリベルダーデにはある

この論争について、当のブラジル人はどう思っているのか。広場と駅の名前にリベルダーデと合わせてジャポンが付けられたことに関して、生粋のパウリスターナ(サンパウロ市の生まれ育ち)のひとり、ラケルさん(41歳)の意見はあたたかい。

ラケル

確かに今は東洋人(オリエンタル)街と呼ぶ方が正しい。でも、大部分の市民はジャポンの名前がつくことに好意的です。処刑場だったという歴史はもっと古く、中国人は増えましたが、日本人はサンパウロの文化にこれまでコラボレートして来て、良いパーソナリティーのイメージも定着していますから

 

生き証人に聞く「リベルダーデが日本人街と呼ばれるまで」

1908年から間もない初期の頃、公式にやってきた日本人移民の多くはサンパウロ州の奥地へ行き、コーヒー園の厳しい労働を突きつけられることになった。やがて農園を離れてより良い人生を求めてサンパウロ市に出ると、リベルダーデ地区の一角にあるコンデ・デ・サルゼーダス通り(Rua Conde de Sarzedas)に集中するようになった。それが、同地区が日本人街と称されるようになった起源といわれている。

余談だが、サンパウロ市の地区ごとの簡単な歴史を紹介したDVDが同市によって制作されており、そこでもリベルダーデの日本人移民と言えばコンデ・デ・サルゼーダス通りということが最初に語られている。

サンパウロ市の地区ごとの簡単な歴史を紹介したDVD

DVDでも紹介されるコンデ・デ・サルゼーダス通り

ここで、「生き証人」に話をうかがいたい。4歳で香川県からブラジルに移民した大浦文雄さん(94歳)は、若い頃より日本人街と呼ばれたリベルダーデを間近に見つめて来たひとりで、今や日本人移民が減少の一途をたどる中、日本語で日本移民史を語れる数少ない証人である。

 

大浦文雄さん

コンデ・デ・サルゼーダス通りにはね、ペンションも多くあり、ポロンと呼ばれる家屋の地階の部屋(湿気でカビ臭くなりがちだが、家賃が安い)で日本人は生活をする人も多かったね。暮らし向きがよくなると、次第に坂を上がって、今も東洋人街の一角となっているサンジョアキン通り辺りにまで日本人は集住するようになり、商売をする人が増えていった。やがて、日本人経営の旅館や宿泊施設が現れるようになると、奥地に移民した日本人がサンパウロ市に出て来た時に利用して、同胞の出会いの場として活気づき、より一層日本人街の様相を呈するようになっていったんだね。ただ、第二次世界大戦が本格的に始まると、ブラジル政府から日本語を話すことや日本人が集まることも禁止され、初期の日本人集住地域から人々は散らばって暮らすようになったんだね。それでも、戦後もリベルダーデは日本人街と呼ばれるまでに発展し、70年代頃には最盛期を迎えたものだったよ

 

サンパウロから車で1時間ほどのスザノ市で暮らしてきた大浦さんが、かつてリベルダーデに来る楽しみにしていたひとつは「日本語書籍」だったと言う。インターネットもなく今ほど日本語で新しい情報が得られなかった時代、リベルダーデには今でこそ2~3軒の日本語書店しか残っていないが、以前はもっと多くの本屋さんがあり、田舎から出てきた大浦さんは、「日本語で文字情報が得られるリベルダーデは、そういった意味でも日本文化の中心地だった」と振り返る。

今は食文化を中心に、そして昔もブラジルにおける日本文化の普及の発信地がリベルダーデだったという意味では、「リベルダーデ・ジャポン広場」への改名に大きな嘘はないのもまた事実だ。

リベルダーデにある日本語書店のひとつ

店内には日本国内で発行された出版物が並んである

 

東洋人を見ると「ニーハオ」の時代に!

多国籍化で失われつつある往年の日本人街

戦前戦後と日本人街の印象を強めていったリベルダーデ地区だが、日本人移民が一生懸命働き、そして子供を教育し、二世以降の子孫がブラジルにおいて様々な分野で社会的地位を得るようになると、地元で商売をする日本人は一人二人と徐々に表通りから姿を消していった

同時に、1980年代以降の日系ブラジル人の日本への「デカセギブーム」もそれに拍車をかけ、前述のとおり日本人に代わって中国人が増加し、この10年くらいでリベルダーデ地区の繁華街はすっかり中国人街といってもいいほど、チャイナパワーをひしひしと感じるようになった

数年前まで日本人が営業していたスナック『つがる』は、今や中華料理店に。

かつては東洋人と見ればブラジル人から「おはよう」「ありがとう」といった片言の日本で声をかけられたものだったが、近年は「ニーハオ」と何の疑いもなく声をかけてくる人が増え、日本人としては「日本人なんですけど!」と腹の中で言い返してしまうという人も……。

東洋人だけでなくアフリカ、南米諸国などからの人々も珍しくない近年のリベルダーデ。

さらに近年では、アフリカ諸国などから移民や難民としてやって来た黒人の姿も増えた。彼らはコンデ・デ・サルゼーダス通りの坂道を下り切った先にある、ミッソン・ダ・パス教会に設置された「移民の家」でお世話になった人も少なくない(その母体はスカラブリニアーノ修道会であり、新しくやって来た移民たちの支援活動を行っている)。

そこでは到着したばかりの移民が、ブラジルでの新しい生活の目途が立つまで数ヶ月間無償(支援者の寄付)で過ごすことができ、その間、彼らは坂を上ってリベルダーデ駅周辺の繁華街まで散歩しに来るようなこともある。日本人移民が過去に歩いた道を、時代や出身国は違えども同じようにたどっている人々がいると思うと、移民や難民の心情もいつの時代も大差ないのではないかと思わされるのである

ミッソン・ダ・パス教会

 

リベルダーデで日本の存在感を死守する九州男児!!

時代の移り変わりとともに日本カラーがリベルダーデから失われていくことを惜しみ、また危惧してきた人物が、東洋人街で今なお「アジア人のドン」として威厳を保つ池崎博文氏(90歳、熊本県出身)である。リベルダーデ・ジャポン広場と改名することに最も力を入れたのも氏だった。

池崎商会のビル

4歳で熊本の天草から移民した池崎氏は、半世紀以上に渡ってリベルダーデで商売に専念し、化粧品小売業で大成功を収めた。中国人が増加し始めた頃からリベルダーデ商工会(ACAL)の会長を務め、日本だけでなく中国など東洋文化にちなんだイベントを実施し、大晦日の餅つき祭り(ブラジル市民に紅白の餅を2万個と、近年はお雑煮も無料で配布される!)、毎年8月の七夕祭りなどの大型イベントでは、いつも広場や通りが大入り満員でごった返すほど活況を呈する。

餅つき祭りの式典にて。鏡割りの左から8人目が池崎博文氏。

リベルダーデの七夕祭り

池崎商会のビルの周辺も中国勢が優勢を占めていく中、同じ通りで日本人に親しまれてきたニッケイ・パラセ・ホテルも一時期いよいよ中国人がオーナーになると言われていたが、池崎氏が自費を投じて、日本移民の歴史を見つめてきた元日本人街のシンボルを死守することになった。

移民110周年=リベルダーデ・ジャポン広場に=メトロ駅も「ジャポン」追加=池崎氏「皆で聖市一番の街に!」|ブラジル知るならニッケイ新聞WEB

リベルダーデの中国の旧正月を祝うイベント

 

ブラジルの一部になる日本人移民の文化と歴史

このようにリベルダーデを中心としてブラジルで息づいてきた日本人移民の文化と歴史だが、今やブラジルという国における文化のひとつとして溶け込んでいこうとしている。それがよく分かる事例のひとつが、「日本食のブラジル化」だ。

「ブラジル風ヤキソバ」に「スシの揚げ物」に「テマケリア」

スシ、サシミ、ヤキソバ、テマキなど、既にブラジル語にもなっている日本の食文化。それらもかつて、日本人街リベルダーデがブラジル普及への発信地としての一端を担っていた。

例えば、今ではブラジル全土で知られているヤキソバだが、かつて「中国人がリベルダーデの屋台で販売していたのが始まりだった」と、戦後、台湾から移民したホー・トニさん(故人)が教えてくれたことを思い出す。「ヤキソバ」の名前で中国人が販売していた福建風のヤキソバがよく売れるのを見て、日系社会で瞬く間に広がり、やがてブラジル社会にも普及していった、という話。

ヤキソバを食べるカップル

ただし、ブラジルで広く親しまれていく過程で、どれも地元流にアレンジを加えて親しまれているのが一般的だ。ヤキソバも、ブラジルのヤキソバは、ソース味でもなし、中華味でもなし、あくまでも塩ベースで素材の味満載のあんかけがブラジルの味として好まれている

また、日本食の代表格であるスシにもそれがある。近年、ブラジル人に人気のスシメニューといえば「ホットロール」(サーモンを巻いた細巻きに衣をつけて油で揚げる)だが、日本でのスシのイメージとは一線を画する。ほかにも、手巻きずしをメインに販売する「テマケリア」はファーストフード感覚で普及した。

リベルダーデの屋台のホットロール

リベルダーデの屋台でサーモンのテマキを持つ女性

リベルダージの食料品店で販売されるブラジルで人気のスシ

ブラジル風味に抗い「本場のこだわり」を追求するラーメン店

特にサンパウロ市は日本食と名の付くレストランは多く存在するが、日本人の減少する昨今、ビジネスで成功するためには味がブラジル人好みに合わせざるをえない店も多い。リベルダーデ地区で日本人移民のために営業してきた日本食レストランもその余波は逃れにくいが、日本人街の誇りをかけるかのように今も本場、日本の味にこだわるお店も存在する。

ラーメン店にできる行列

例えば、この2~3年で急増したのは何と言ってもラーメン店。その老舗と言えるのは2002年と2008年にそれぞれオープンした『あすか』と『ラーメン和』である。後者は日本本国の味に徹底してこだわり、麺や調味料といった味のベースとなる基本食材は日本から輸入する。

どちらも連日行列ができるほど流行っており、それに追随するかのようにここ最近はリベルダーデだけでなく、サンパウロ市内のとりわけ日系人の集住する地区には雨後のタケノコのように新しいラーメン店が次々と生まれている。かつてブラジルでラーメンは普及しないと言われていたが、予想を裏切りヤキソバが普及したように、リベルダーデ発の日本のラーメン文化がどこまでブラジルで受け入れられるか、今後の見どころである。

味は日本のそれと変わらない

メニューに記載されたこだわりのメッセージ

リベルダーデで日本の味にこだわるラーメン店やケーキ店の様子

 

日本人移民の文化はブラジルの多文化社会の一部に

日本人移民が減少の一途をたどる中、再び日本からの集団移民が定住しなければ、ブラジルの日本人街はやがて失われていく。というより今既に、急速に失われつつあるとも言える。

しかし、日本人移民の子孫や日本文化を愛するブラジルの人々によって、突出した日本人街ではなくても、日系人のいる各地で日本からもたらされた文化の一部はこれからも南米の大地に溶け込みながら、日本人の足跡を刻み続けるのではないだろうか

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この記事を書いた人

大浦 智子

大浦 智子

2001年よりブラジル・サンパウロ在住。結婚後は育児と、フリーとして出版業務を中心に携わる。現地で発行されている日本語フリーペーパー「ピンドラーマ」で企画された、ブラジルでの世界各国の移民や難民をテーマとした取材を10年以上前から開始。今も生活で一番の関心事は、地球上での人の移動に関する事柄や世界各地のグローカル文化。十勝毎日新聞「世界のima」ではブラジルの身近な話題を紹介してきた。http://www.ima-earth.com

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