ボリビアの街・サンフアンで継がれる「日本」、その過酷な背景と功績。

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※本記事は特集『海外の日本人街』、ボリビアからお送りします。

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ボリビアには「サンフアン」と「オキナワ」という日本人街がある

ボリビア、と聞いて思い浮かべるイメージはなんですか?

バックパッカーに絶大な人気を誇る、ウユニ塩湖。/©Patrick Nouhailler

私にとってのそれは正直、ウユニ塩湖くらいのものでした。それも旅好きには定番ですが、そうでないとなかなか思い浮かばない人もいるのではないでしょうか。しかし、実はこの国に2箇所、戦後に日本人が移り住み形成された街が存在するのです


サンフアン地区と、そこから東へ120km強走った先にあるオキナワ地区。前者には1700人、後者には1977年まで入植がつづき、最盛期の日本人(日系人)人口は3000人を超えたという。

今日本では、経済状況を好転させる施策として「移民」という言葉が話題に上がる機会が増えています。この10年ほどの外国人人口の急増を見ているとすでにはじまっていると言ってもよいかもしれません。しかし、これは受け入れ側の話。実は日本もまた、明治から昭和にかけて、南米を中心に多くの移民たちを送り出したという事実はあまり知られていないような気がします

そこで今回、サンフアン地区に住む方から直接お話を聞ける機会を得られたので、現地の様子やその歴史について教えてもらえることになりました。今から63年前、1955年、九州からボリビアに渡った日本人たちの開拓史。再び「移民」と直面する時代に生きているからこそ学び、考えたい、大変なドラマがありました。

サンフアン日本人移住地、入植50周年につくられた記念碑。
開拓に関わったひとびとの姿が描かれている。

 

サンフアン日本人移住地の街並みは「日本の田舎」

水嶋

コシボリさん、はじめまして。よろしくお願いいたします

コシボリさん

はい、よろしくお願いいたします

水嶋

サンフアンに住まれて2年ということで。まずは簡単にその経緯をうかがってもいいですか?

コシボリさん

ボリビア自体には住みはじめて5年で、友人がいたことや、生活費が安く済むこと、また健康上の理由から暑い場所で暮らす方がよかったので移住しました

水嶋

住み心地はいかがです?

コシボリさん

日本では息が詰まる生活でしたが、こちらに友達もたくさんでき、不便さはいくらかあるものの毎日楽しんで過ごせています。元気に動けるうちはここにいたいですね

水嶋

なるほど。ではでは、質問はたくさんありますが、まずは街並みを教えてもらえればと思います!

コシボリさん

分かりました!

ゲートに力強く描かれた、「サンフアン日本人移住地」の文字。

コシボリさん

サンフアンは、まず入り口にある大きな看板とゲートが目を引きます


水嶋

うおぉ、存在感! これだけを見て海外だ、 とは思いませんね……!


コシボリさん

『自分たちが切り拓いた街がここにある!』という、初期の入植者の思いを象徴しています


水嶋

ということは、最初から街だった訳ではないんですね?


コシボリさん

はい。またあとで詳しく話しますが、当初は見渡す限りの原生林だったそうです


水嶋

これが昔は……。広さはどれくらいなんですか?


コシボリさん

東西に15km、南北に40kmほど。居住区は東京都の杉並区の広さほどかもしれません


水嶋

人口密度はさまざまでしょうけど、思っていた以上に広い!

日本ボリビア協会の建物。

水嶋

こちらの建物は?


コシボリさん

日本ボリビア協会です。日本人コロニーのための催し物のサポートや、現地の病院やガソリンスタンドの経営もしている、在住日本人(日系人)の生活とは切り離せない施設(組織)です


水嶋

へーっ、まるで役場というか、立派な自治体ですね

CAISY、2本の木と山がシンボルのロゴマーク。

コシボリさん

こちらはCAISY、農協のような働きをしています


水嶋

役場に病院にガソリンスタンドに、そして農協……まるで日本の田舎のようなバリエーション!


コシボリさん

まさに雰囲気はそんな感じです。外国にいながら、日本語で買い物ができ、また近所付き合いもあるので、ときどき日本の田舎にいる錯覚を覚えます


水嶋

海外の日本人街でそんな場所は稀ですね、郊外で、歴史の長さが為せることなのかもしれません

日本食店もあります。

カツ丼。日本の食材をつくっているので、味は本場のそれと変わらない。

一方のこちらが、ボリビアの一般食。
ご飯の上に、焼いた牛肉、トマトサラダ、揚げたバナナ。約150円。

コシボリさん

日本食店は数軒ありますが、こちらは40年近くと一番長く営業している伊藤食堂です。平日などのメニューは、親子丼やラーメン、長崎ちゃんぽんで、週末はビュッフェスタイルに変わり、日本人(日系人)だけでなく現地に住むボリビア人も押し寄せる人気店です


水嶋

いや、もうこれ、すでに私が日本の田舎を見ている錯覚を覚えてきましたよ……

平日のビュッフェの様子。すごーく、不思議な感じ……!

巻き寿司やおにぎりのバリエーションが豊富そうです。

ここまでの写真を見ていると、砂をかぶった道やヤシかソテツのような植物に南米らしさは感じられるけど、何も聞かされていなければ、随所に見られる圧倒的な日本感から沖縄あたりの田舎かと思ってしまいそうだ。ここがもともとどこまでも広がる原生林だったというから、さらに驚き。

では、なぜここに日本人街が形成されたのか? 詳しく聞かせていただきます。

直訳すると、「サンフアン日本人移住地病院」と書いてある施設。

 

戦後の「人口爆発」から「新天地」を求めて南米へ

コシボリさん

太平洋戦争が終わった10年後の1955年から、何回にも分けてグループごとにブラジル経由で移ってきたそうです。当時はおよそ3ヶ月に渡る船旅で、家族や子どもを引き連れて家財道具一式を持ってくるのは想像を遥かに超える苦労があったと聞いています


水嶋

その末に……たどり着いた先はジャングル、という訳ですか?


コシボリさん

その通り、まさにゼロからのスタートです

資料館には入植当時の写真が展示されている。本当だ、まさしくジャングル……!

水嶋

それは、移民を送り出さなければいけないほど戦後の日本は困窮していたということでしょうか?


コシボリさん

はい。当時はとにかく人口が多く、終戦とともに帰国した人たちへ住む場所を確保してあげることができませんでした。そこで日本政府がとった方法が移民政策。ペルー、ブラジル、ボリビアといった南米諸国に打診して、農地開発をする代わりに無償で土地を提供してもらうということになったのです


水嶋

なるほど。だからジャングル……


コシボリさん

しかし、「政府から『土地も仕事もある』と聞いて来たら道もない場所で騙された」という方にもお会いしたことがあります


水嶋

移民って本来は、豊かな国に移ることですもんね……。さすがにそれは、ひどい話です

ゲートの写真にあるアスファルト道路は、なんと2003年、つまり最初の入植から半世紀ほど経ってようやく舗装されたもの。それまではこの説明文にある通り、獣道と呼ばれるほどに悪路を極める状態だったという。

コシボリさん

移民の打診を受けた人は、日本海軍から引き揚げてきた、長崎、福岡、佐賀、といった九州出身者が中心。当然、一大決心をして移住に踏み切りました。サンフアン地区にある資料館や歴史のモニュメントは、当時の彼らの苦労を教えてくれます

この地で生き、またこの地で眠りについたひとびとの名前が刻まれた慰霊碑。

なんだかもう、ただただ素直に、胸に来る。

戦後の日本人は敗戦から立ち上がるため、ただでさえ多大な力が必要だったはず。それからいよいよ高度経済成長期に入っていこうとする中で、国から突きつけられる移民という選択肢。「広大な土地を持てる」「新天地だ」と、良いように語ったところで、国を親にたとえれば子の間引きという側面は否定できない。実際に、移民のひとびとの間では、自らにとられた政策のことを「棄民」と呼んで揶揄していたとのこと

石碑に刻まれたメッセージ。

そうして過酷な船旅を経て辿り着いた新天地が見渡す限りのジャングルだと知ったとき、彼らはどう思ったのだろう。それをもしかしたら、10年前の敗戦と重ねて感じた人もいたかもしれない。しかし、すでに紹介した通り、そこから彼らは持ち前の団結力・忍耐力・行動力で現在の「街並み」と、「日本人像」を築き上げた。

入植当時、リーダー的存在だった若槻泰雄氏の銅像。氏が2001年に執筆した書籍のタイトルが「外務省が消した日本人―南米移民の半世紀」というものからも、当時の過酷な環境がうかがえる。

コシボリさん

ボリビア人にとって彼らのイメージは、『農業で成功したお金持ち』というものが強いと思います。今や農地の規模も大きく、家族だけでは仕事が終わらないので、ボリビア人を雇って経営しているほどです。もともと日本人が拓いてきた土地でしたが、廃棄されたり売りに出されたりして、その土地を買って引き継いで、家族・親戚総出で移り住んでいるというボリビア人もいます

入植50周年につくられたモニュメントには、開拓に関わったひとびとが描かれている。

日本人が移民として拓いた土地に、今はボリビア人が(国内とはいえ)移民してきた、とも言える。当時の目的だった「農地開発」という点ではこの上ない大成功。ボリビアではどうか分からないが、ブラジルにおいて戦前から移り住んだ日本人移民は、国に多くの農作物を伝えて「農業の神様」と呼ばれた。その後も、熱心な教育によって次世代の活躍につながり、現在までの日系人の社会的地位を築いている。こちらもまた、同じようなジャングルからのスタートだったという。

しかしながら、彼らは日本人としてのアイデンティを忘れてはいない。

 

ボリビアで日本人の精神性を引き継ぐ「サンフアン人」

水嶋

入植から60年あまり。早ければ四世の世代が生まれていてもおかしくないかと思いますが、日本の伝統などはさすがに薄れているものでしょうか?


コシボリさん

いえ、現地では盆踊り大会なども催され、今でも伝統行事がつづいています


水嶋

なんというか、それはたまらなく、うれしいことですね……!

資料館にはボリビア国内の日系人についての説明文があり、歴史を後世に残そうという姿勢が伝わる。

コシボリさん

また、サンフアンの日系人はおもに農業・養鶏・畜牛を仕事にしているのですが、年に一度、生産物を品評・販売する物産展のような行事もあります。日本とまったく変わらない、かつ新鮮な野菜や穀物に果物が安く手に入ります。手芸や生け花に習字などの習い事を発表する場もあり、そうして文化が途切れないよう受け継がれている光景は、私もなんだか嬉しくなりますね。ボリビア人もかなり来ておりました

年に一度開催される、物産展の様子。

水嶋

話を聞いていると、むしろ、日本に暮らす日本人以上に、文化を大事に扱ってそして引き継いでいる、という印象です。外国、しかも地球の真裏という地理的にも文化的にも離れた環境にいるからこそ、自分たちがもともと持っているアイデンティティを失わないように紡いでいこうという意志が強くあるのでしょうね

現代の日本以上に、日本人の精神性を大事にしていると感じる。

コシボリさん

そうですね。精神性は日本人と変わらない方も多く、年配の方は比較的日本人同士で集まったり交流したりしているので母語が日本語になります。一方で、二世以降の方は日本語学校は出ているものの友達や同僚はボリビア人が多いため、スペイン語の方が話しやすいという方が増えていることが現状です。彼らの場合は、家の中では家族と日本語、外ではスペイン語、という感じですね

日系人同士の結婚式会場の様子。
現在、現地の日系人人口は700~750人ほど、若い三世ではボリビア人との結婚も多いとのこと。

水嶋

日系人のみなさんご自身は、アイデンティティをどのように考えているのでしょうか


コシボリさん

二世三世の方には一度も日本に行ったことがないという方もいれば、反対にボリビアから引き揚げて今は日本で暮らしているという方もいらっしゃいます。アイデンティティについて聞くと、『サンフアンで生まれ育ったから、日本人でもボリビア人でもなくサンフアン人だ!』と語っておられたことが印象的でした


水嶋

深い……。うん、60年の開拓史を思うとことさらに、それは深い言葉ですね

 

送り出す側から受け入れる側に回った今の日本、過去から学び考えたい。

いかがでしたでしょうか。

個人的には、かなり衝撃的な事実(歴史)の連続でした。想像以上に、壮絶なドラマ。

60年前の激動の時代に、さらに激動の環境に身を置かざるを得ず、ジャングルから道を拓いて街を築き、作物を育て、子を教育し、現在までの暮らしを築いていった方々の姿を思うと、そしてそれを今までロクに知らなかったのかと思うと、同じ日本人として胸を締め付けられる思いです。

冒頭で書いた通り、今、日本は経済状況を好転させるために移民政策について議論されています。というより、ベトナム人を中心とした技能実習生制度などを見ていると、すでに事実上はじまっていると言ってもよいでしょう。それはつまり、かつて移民を送り出す側だった日本が受け入れる側に回っているということです。

それをひとりひとりが、どう受け止めて、どう行動するか。その一歩目が、我々日本人の移民開拓史を知ることではないかと、今回のお話を通してそう感じました。少なくとも、送られる側も、受け入れる側も、誰もが「騙された」と思うことのない未来を選んでほしいなと願っています。

最後にボリビアらしい写真を一枚。建国記念日には全国的にお祭りが開かれ、各地にゆかりのある衣装で踊る。

 

***

 

今回コシボリさんさんへのご協力は、海外ZINEの運営元である『トラベロコ』を利用しました。

スペシャルサンクス:Boliviano japonesさんがサンタクルスの旅のお手伝いします | トラベロコ

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この記事を書いた人

ネルソン水嶋

ネルソン水嶋

ブロガー、ライター、編集者。2011年のベトナム移住をきっかけにはじめた現地生活を綴るブログ『べとまる』から『ライブドアブログ奨学金』『デイリーポータルZ新人賞』などを受賞を契機に、ライターに。2017年11月の立ち上げから2019年12月末まで、海外ZINEの編集長を務める。/べとまるTwitterFacebooknote

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