『アラブ世界と福嶋タケシ』前編:砂と太陽の異世界にあこがれて

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「世界一退屈な街」に暮らす日本人公務員

はじめまして。アラビア半島の北の端に突き出た国「カタール」で暮らす日本人、福嶋タケシと申します。このカタールがどこかにあるのか、日本人でご存知の方はあまり多くないのではないでしょうか?

日本との位置関係は、この通り。

首都はドーハ。かつては観光スポットと呼べるものも歴史的遺産もなかったことから、「世界一退屈な街」と某ガイドブックに書かれてしまったこともあるこの街ですが、それも昔の話。最近では「2022年サッカーワールドカップ開催国」と聞けばピンとくる方もいるのではないでしょうか。

また、サッカーといえば、「ドーハの悲劇」という言葉を耳にした方は多いはず。1993年に日本がW杯初出場を逃した、あの一戦の舞台でもあります。

そこで私が何をしているかというと、カタール政府の職員、つまり現地公務員という立場で仕事をしています。これまでいくつかの部署を異動になり、ここ数年は広報部での撮影業務がメイン。

仕事で撮影した写真は報道機関に配布され、翌日の新聞各紙に掲載されます。

「外国人が公務員?」と驚かれる方もいるかもしれませんが、インド人、ネパール人、フィリピン人、スリランカ人など、人口の約80%以上が外国人であるカタールでは、それほど珍しいわけではありません。私が所属している機関でも職員の半分近くは外国人です。ただし、アジア系はマイノリティであり、およそ2000人の職員の中で日本人は私一人だけ。

それほど希少種なら目立つのかというと、普段からカタール人と全く同じ格好、あの真っ白の民族衣装を着ていることもあってかひと目では「日本人」だと認識してもらえず、仕事でたまに会う人たちの中にはいまだに私が日本人だと知らない人もいます

ちなみにアパートのクローゼットの中はアラブ服で大半が埋まっています。スーツなどは持っていません。

そんな現地での生活ももうすぐ17年目、人生の1/3以上を過ごすことになりました。ここで、私が、どうして、どのようにして、この国で暮らすことになったのかをお話したいと思います。

そもそもの始まりだった「アラブ世界への憧れ」は、住みはじめた頃からさらに10年前、四半世紀近く前の学生時代まで遡ります。

 

「憧れの異世界」と重なった魅惑的なアラブ世界

私が中東、中でもアラブ世界への興味を持ち始めたのは80年代も終えようとする頃でした。

まだバブル景気に湧く日本で、取り立てて目標やなりたいものもないまま、学歴社会という壁を乗り越えるためだけに大学で講義を受けていた私。そんな無目的だった暮らしに風穴を開けるように当時、中東から大きなニュースが立て続けに飛び込んできました。「イラン・イラク戦争の終焉」、そして「イラクによるクウェート侵攻」と「湾岸戦争の勃発」ー。

それが、私にとってはじめての「アラブ世界」との出会いでした。ブラウン管の向こうには、この現代において未だに民族衣装を当たり前のように身に纏い暮らす人々。中学から高校にかけて三国志などの中国歴史モノにハマっていた時期があり、今とは全く違う世界観や暮らしに心躍らせていた自分は、その先にかつて抱いた「異世界への憧れ」のような気持ちを思い起こしたのでした。

もっと彼らの暮らす世界を知りたい。そして、いつか、あの街で彼らと同じ空気の中で暮らしたい。それから海外の刊行物を定期的に届けてくれるサービスに登録し、欧州などから英語の中東専門雑誌を取り寄せては貪るように読むように。このようにして、私は中東に魅了されたのです。

ゼミの卒論のテーマでは中東における政治問題を選択。思う存分に資料を読み、「あの世界の住人になる」という憧れに着実に近づいていったものの、ある日、ひとつの問題に突き当たります。それは「アラブでは初対面で必ずと言っていいほど信じる宗教について質問される」というもの。

©Muhammad Abdullah Al Akib

それは、確かにそうでしょう。かの地に暮らしている人たちのほとんどがムスリム(イスラーム教徒)であり、眼の前の相手が信仰する宗教に関心を持つのは極々自然なことです。ところが日本で出版されているアラブ・中東関係の書籍には、「アラブ人にとって『日本人は仏教徒』というイメージが定着しているので、たとえ無宗教であってもそのように答えるのが望ましい」とありました。

なるほど。しかし、はて? 私は仏教徒なのか? という疑問と共に、もしそうでないならアラブ人たちの前で嘘をつくことになるがそれは果たして良いことなのだろうか、という後ろめたさに似た気持ちが湧いてきました。「よし。ならば、ムスリムになろう」ー。

大学卒業とほぼ同時に神戸モスクで入信。いつ行けるともわからない。もしかしたら一生憧れのままで終わるかもしれない。それなのに入信を決意した自分、昔からせっかちな性格でした。

その後は大学院を目指すも失敗し、神戸に仕事を得て、日本で極ふつうの社会人生活を送ることになりました。もちろん、諦めたつもりはなかったのですが、ただただ「どうすればアラブへ行くことが出来るのか」が分からない。アラブへの夢は遠ざかるも、胸のどこかで常にくすぶり、苛立ちにも似た焦りを感じていたのです。

神戸モスクの外観

 

ある日突然に訪れた、巡礼の機会。

それから間もない1995年の1月、あの阪神大震災を被災。職場も大きな被害を受けた私は、地域に住んでいたアラブ・アジア各国からの留学生たちとともにモスクで一年ほどの避難生活を送ったのちに、仕事を辞めて大阪に帰省。その行動が、アラブ世界との距離をグッと近づけることに。

なんと、私の帰省を聞きつけた地元の友人が、サウジアラビアにいる日本人駐在員の知人に私の話をしたところ、聖地・メッカを訪ねるサポートをしてくれるということになったのです。憧れからおよそ6年、思わぬタイミングでアラブ世界へ飛び込むチャンスが到来しました。

ハッジ期間中のメッカの様子

巡礼には、「ハッジ(大巡礼)」と「ウムラ(小巡礼)」のおもに二種類があります。前者は時期と回る場所が数箇所決まっており、後者はそれ以外の時期に一箇所のみで行う。また、ビザもその巡礼に対応するものがあるのですが、当時はハッジ(大巡礼)の時期ではなかったため、ウムラ(小巡礼)ビザを取得することになりました。上京して大使館で申請をし、髄膜炎の予防接種を受け、翌日にはビザを押されたパスポートが返却。いよいよ憧れのアラブ世界へ。一度決まると、あとの話は思いのほかすんなりと進みました。

 

はじめてのアラブで叶った「憧れの再確認」

1996年の2月。寒さの底にある関西空港から人生初の、飛行機搭乗と海外旅行。

初めて尽くしでしたが、「アラブ世界をこの目で見たい」という一心からの決意と行動でした。日本からサウジアラビアへの直行便はなく、お昼過ぎに出発してマレーシアでトランジット。そのまま一泊し、翌日の午後にサウジアラビア航空機で都市・ジェッダへと向かい、深夜に到着。出迎えに来てくれた駐在員の方と無事に会えた時の、ホッと安堵した気持ちは今でも覚えています。

これでようやく、憧れつづけたアラブ世界に飛び込めたのだ。車でメッカ市内へと向かう中で見えた、高速道路を照らす街灯の橙色、市街地の商店の灯り、24時間大勢の参拝客が行き交うメッカの街並みに、心を躍らせる自分。たった10日間の現地滞在。しかし、自分の中にあったアラブへの憧れを再確認するには十分でした

魅惑的なアラブの街並み

それまでは書物という「想像」や「空想」に基づいた、ある意味で「空虚な」思い込みだった「アラブへの憧れ」が、現実世界と重なることで自分は本当に心からこの場所へ来たいと思っているんだという確信となり、「必ずいつかあの街に戻って暮らすんだ」と心に誓う自分がいました。

後から聞いた話ですが、私がメッカにいる間に父は「タケシが帰ってきたら、必ずアラブで暮らしたいと言い出すから覚悟しといたほうがいいぞ」と母に話していたそうです。さすがは父親、息子の気持ちを見透かしていましたね。

帰国してからもアラブの夜の街並みが忘れられずにいましたが、かといって無職のままでいる訳にもいかず、地元の町工場に就職。そこでアラブとは何の関係もない仕事をつづけていく上で、ひとつだけ決めたことがありました。それは、「今から4年後、30歳になるまでにチャンスが来なければアラブへ行く夢は諦めよう。アラブのことは忘れて生きよう」というもの。

ある意味では、他力本願。今思えば、大した努力もせずに随分と大胆な線引きを掲げたものだと思います。ただ、当時の日本で(今でも?)30歳というのは極端に仕事が見つかりにくくなる、大きな壁。また、現地で語学を習得できる歳を踏まえての限界設定でもありました。

 

30歳を目前にして、UAE大学の交換留学生に。

それでも油のすえた匂いの漂う町工場という職場は性に合っていたようで、毎日朝早くから夜遅くまで働き、週末になればパソコン通信で知り合った仲間とあちこちに出掛ける。そんな生活に、それなりの充実感を味わっていました。

やがて自ら線を引いた30歳という年齢がちらつきはじめ、自分の中でもまた「アラブで暮らす」というイメージが薄れはじめていた1998年の秋。知人から「日本UAE協会という組織がUAE大学への留学生を募集している」という話が舞い込んできました。当時の自分には「アラブ=サウジアラビア」という単純なイメージしかなく、「UAE? それどこ?」という状態でしたが、そこがサウジアラビアのすぐ隣だと知るや否やすぐさま応募書類を提出。

しかし、それから、1ヶ月、2ヶ月、待てども待てども成否の連絡はありません。関係者に尋ねても「他の候補が見つかったのかもしれないね」とつれない返事。やはり、チャンスは来なかった、自分はアラブに縁がなかった。、これはキッパリと諦める理由が出来たということなのだ、無理やりそう思ってしまおうとした矢先のこと。大晦日の夜、紅白歌合戦を観ているとUAEの首都アブダビから一本の電話が掛かってきました。担当者からの……私の留学決定を知らせる一報でした

©Kentaro Ohno

この留学制度は「聴講生」という立場で、1年間大学の学生寮で生活しながら自分の好きな授業に出るという形態であり、日本からは私を含めて3名が選ばれていました。今だからこそ言えますが、当時の私のアラビア語は数字どころかふたつの挨拶が精一杯。もし4名以上からの選抜となっていたら、落選して、私は今ここカタールにはいなかったのかもしれません。

そして実は、この瞬間まで、あれこれと説教を食らうのが嫌で両親には全く何も知らせていませんでした。しかし、こうして決まってしまったからにはもう後には引けません。年末の静まり返った空気の中、「UAEに留学したい」と親に打ち明けました。

驚きつつも、「1年だけだぞ。1年経ったら帰ってくるんだぞ」と返す父。しかし、以前から「最初は生活に慣れるだけで精一杯、語学をきちんと学習できるのは2年目から」という留学経験者たちの言葉を聞いていた自分は最初から最低2年は留学するつもりでいましたが、それは伏せることにしました(そして今、20年目に突入)。そのときはとにかく、アラブへの道が拓かれたことに狂喜乱舞していたというのが正直なところです。親に黙っていたくらいなので職場も同様で、年明けの仕事初めに上司へ伝え、こちらも驚かれつつもその月いっぱいで辞めることを了承してもらいました。

それから、アパートの退去や諸手続きに伴う書類作成、関係者への挨拶回り、という忙しい日々を送り、いよいよ2月下旬。図らずとも再び、はじめてサウジアラビアへ巡礼に発った頃と同じ時期、雪で真っ白に染まった成田空港からUAEへ向けて飛び立ったのです。

次こそ本当に、「アラブ世界の住人」になると誓って

 

「『アラブ世界と福嶋タケシ』後編」につづく

 

 

編集:ネルソン水嶋

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この記事を書いた人

福嶋 タケシ

福嶋 タケシ

1970年生まれ、大阪出身。1999年にUAE大学留学。2002年よりカタール在住。現地政府所属の公務員として、写真撮影およびメディアリサーチ等を担当。ラクダをこよなく愛し、鷹匠に憧れる日系ベドウィン。Instagram / 『遊牧民的人生

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